Diary

さよならそうめん

通院日。電車で行って帰り道に「愛なんかいらねー」に書いた場所を検証しに行く。記憶だけで書けないことはないけれど、行ったら何か浮かぶかもしれない、一行でも変わるかもしれないと思ったら行くことは苦にならない。私は、一日何枚書けた、ということよりも、「この一文がよくなった」ということの方を大事に思う。変える必要がないとわかれば、それはそれで行ってよかったと思う。できることをやらんまま、活字になってしまうのは悔いが残る。

めでたいことが一つ。ついに冷麦・素麺を完食した。明日からは、もう在庫やソースとの相性にしばられることなくマカロニでもスパゲティでも食べられる。もっと肉とか魚も食えって感じなんだけれど。身に付いた貧乏性はなかなか直るものではない。


子供と納豆

朝日新聞日曜版インタビュー。掲載は12月。学生の頃アルバイトをしていたので、久々に見る社屋が懐かしかった。

以前、同居人が甥っ子に「どうしてイトヤマさんもつれてこないの?」と聞かれて「絲山は子供が嫌いだから」と答えた。先日、甥っ子が「イトヤマさんはまだ、こどもがきらいなの?」と言ったらしい。同居人は「そういう大人もいると判ればいいんだよ」と笑っているけれど、なんだか悪いことをしたような気になってしまう。シイタケやトロロは大人になって好きになったけれど、子供と納豆は苦手だ。甥っ子に罪はないのにね。


収穫なし

朝、起きた時点で遠方への日帰り出張は無理と判断。そこから、やらなければならないことを一つ減らし二つ減らしして、都内の検証、取材に出掛けるが今日は何ひとつ収穫がなかった。こんな日もある。
地元で軽く飲んで帰った。


ばしゃまんごつ

打ちあわせで力を得て、朝4時まで新潮「愛なんかいらねー」を書く。朝9時から再び原稿、午後2時から文春打ちあわせ。どちらも土日出勤で申し訳ないのだが、平日はちょっと慌ただしい。明日は日帰り取材に行きたいのだけれど、新潮の原稿次第でわからない。

熊本弁ではこういうのを「ばしゃまんごつ働く」と言う。馬車馬の如く、から来ている。福岡では聞いたことがない。
今でもよく使われている言葉なのかどうかは判らないが、少なくとも私の先祖は口にしていた筈だ。

私は無宗教なので極楽とか天国とかそういうのは考えないが、死んだらじいさんやひいじいさん、先祖たちに会って長生きとを褒めてもらえると思い込んでいる。酒飲みでよく喋る血統だから、死後は毎日が宴会だろう(それって一種の地獄なのか)。
でもそう思えば、九州の言葉を若いうちに覚えたことは、死後も役に立つ。まあ今のうちは黙々と働いておこうか。


そうめん在庫僅少

新潮「愛なんかいらねー」打ちあわせ。現在迷っている部分など相談に乗ってもらい、ずいぶん前進した気がする。気がするで満足してちゃいけない、書かなきゃ。

飯は相変わらずイタリアンそうめん。麺をうんと堅めに茹でること、オリーブオイルを大量に使うこと、ソースは茹汁をパスタのときより多めに入れてのばすこと、など工夫して相当食べやすくなった。在庫なくなったらまた買うかって? 当分買いません。


千客万来

越してきて2ヶ月、当初は落ち着かなかったが同居生活にも慣れた。毎朝の掃除や、使ったらすぐに茶碗を洗うこと、水回りの気遣いも習慣化すればどうってことはない。客人が来ると掃除にも張り合いが出る。

今日は書店訪問二日目。夜、友人来宅の予定。
つまんない日記ですみません。


厚着を笑う者は薄着に泣くのだ。

今日と明日、講談社同行で書店にお邪魔して、サイン本やPOPを置いていただく。ご協力下さる書店さん、ありがとうございます。息長く置いていただけたらいいなと思います。
私はメーカーにいたとき営業の仕事が好きだったから、書店さんに伺うのは嬉しくて仕方ない。一人だと気後れして、自分の本の置いてあるところに近づけないから余計かもしれない。

この時期、気温がわからない。群馬の「朝晴れていると昼から風が吹いておそろしく寒いの法則」がどうしても頭の片隅にあって、つい厚着して笑われる。厚着を笑う者は薄着に泣くのだ。夏は薄着で泣いたなあ、夏の講談社は冷え冷えですから。


ポジティブで失礼

去年の年末はうつ状態だったし仕事もなかったので知らないのだが、この業界には「年末進行」というものがあるらしく、最近ちらほら聞えてくる。詳細は不明だが、どうやら年末年始とは、たまったゲラや十分関われなかった新作をまとめてやれる絶好の機会ではないだろうか。前向きですが、そんなわけで年賀状は失礼して出しません。
来年は、正月が休めねー、なんて素人臭いことを言うのをやめてみます。再来年はどうだろう。

博文館が出している5年ダイアリーというものを、会社の先輩からいただいた。例えば11月3日のページを開くと、そこに2005年から2009年までの5行日記がずらりと並んでいる、という体裁。これで毎年、正月や誕生日をどう迎えるか、クリスマスはさびしーのか強がるのか、一目瞭然である。自戒の機会になればいいがwebに書けない陰惨な内容満載になる可能性もないではない。


カンヅメ4日目-帰宅すっきり

カンヅメはかなりの成果があり、とにかくプリントアウトしたくなったので早々と帰る。車は気楽でいいっす。
施設に宿泊しているのは自分だけ、という状況は相当さびしかった。ご飯は美味しいけれど、広いホールで自分の咀嚼の音しか聞えない。携帯は通じないし部屋に電話もないから、同居人とメッセするていたらく。他に喋るやついねーのか。

今朝、FMヨコハマ(books A to Z)からの嬉しい出演依頼があった。以前の2冊もお世話になった本の番組なので喜んでお受けした。
帰ってきて早速プリンタと洗濯機をまわしてすっきりする。あと、散髪もしたいなあ。まるで退院したような気分。


カンヅメ3日目

小説に関して、文芸誌では最初に枚数の厳密な約束はあまりしない。一応、50枚とか100枚とか言うけど、言った通りになったのは「袋小路の男」と「勤労感謝の日」だけで、あとはバラバラ。未熟者ですから。
今回の「愛なんかいらねー」が一番わからなくて、私が30枚? と言うと、新潮は100枚くらい行くでしょう、と言う。原稿料3倍とかそういうことではないのだ。実験的な作品なので、嫌いな人は嫌いだろう。それでも、書かなければならないものというのはある。
しかし、缶詰めで15枚が50枚になる不思議。結末は割と早い段階で決まっているのだが、あちこち不足だらけで、枚数も内容もどうなるんだかまだわからない。

それより、気になるのはあれだ。開け放した窓の外を昨日からアシナガバチがふらふら飛んでいる。巣があるのか、物件探しをしているのかわからないが、あんなのに紛れ込まれたらたまったものじゃない、と思いながら、タバコを吸う人間としてはついつい窓を開けてしまう。

携帯も不通で、殆ど誰とも喋らないと日記が饒舌になります。


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