Diary

第19回絲山賞

第19回絲山賞は松尾亮太著『考えるナメクジ 人間をしのぐ驚異の脳機能』(2020年 さくら舎刊)にさしあげたいと思います。
私は(本書にはあまり出てこない)ヤマナメクジが少しだけ好きですが、多くの方はナメクジが好きではないと思います。好きになる必要もありません。それでも全人類に読んでほしい! と言いたくなる貴重な一冊です。
タイトル、副題に偽りはありません。
ナメクジはその小さな脳で考え、迷い、学習するのです。「学習」とは「なんらかの経験によってその後の行動が変わること」ですが、ナメクジは高度な論理学習もでき、また記憶力も優れていることが実験によって証明されています。
また、脳の再生やニューロンの新生、体の成長に合わせてDNAを増やすことなど、人間だけでなく多くの動物では考えられないような機能や生存戦略を持った動物だということも書かれています。
これまでの生物学の常識を書き換えるような研究で、今後の脳科学や医学などに応用されるのかもしれませんが、しかし一般読者の暮らしが明日から変わるようなことはありません。
けれども世界を広げてくれるのは、科学でも芸術でも人との交流でも、すぐには役に立たないことなのだと私は思います。「常識と非常識が入れ替わるダイナミズム」と著者は書いていますが、科学者の発見は、心に無意識にかけていたブレーキを外してくれます。驚きが小さな喜びに変わり、最前線の現場で研究や仕事をする人に対して尊敬の気持ちが生まれるとき、世界は少しだけ広がります。自分の経験から得られるものとは違った幸せを感じます。
蛇足ではありますが「なにかつらいことがあると」「目立たぬように慎重に生きる、という堅実なナメクジの生き方」など、真面目に語れば語るほど研究対象への愛が溢れてくる文章もとても魅力的です。


巻き寿司についてのエッセイ 馬事からっ風(62)

このエッセイは、乗馬クラブ高崎が発行している毎月のお知らせ『ぽこあぽこ 3月号』より連載中の「馬事からっ風」第62回を、許可を得て転載したものです。
 
 

かねてから思っていたこと。なぜ鉄火丼はあるのにかっぱ丼や干瓢丼はないのか。
ごはんものは、種類によって守備範囲が違うからです。おにぎりもかなり守備範囲が広い方だと思いますが、巻き寿司(特に太巻き)にはかないません。酢飯を人にたとえるなら「なんでもありだからどんと来い!」と言ってくれる、器の大きなまとめ役です。桜でんぶや高野豆腐といったクラシックな常連だけではありません。マグロやイクラ、カニのような海鮮界の上流階級とも、ツナやカニカマのような庶民とも分け隔てなくつき合います。卵やきゅうり、レタスなど台所のレギュラーメンバーも活躍しますし、アボガド、焼肉、エビフライ、唐揚げ、クリームチーズ、納豆のような個性派も無理なく馴染めるのです。食感で言えば弾力のあるもの、ぷちぷちはじけるもの、さくさくしたもの、あらゆる具材を「大勢で来ても大丈夫!」と受け入れる。味付けのあるなしにもこだわらない。具材が大きくても小さくても、切り方が下手くそでも巻いてしまえば問題ない。そしてすべてを、香りのいい海苔がしっとりと包んでくれるのです。遠慮することなくみんなが受け入れられ、個性を発揮しつつ周囲とも調和している。これこそ多様性の実現、理想の社会ではありませんか。次に生まれてくるときは具材となって寿司に巻かれたい、とまでは思いませんが。

 

スーパーでもらった恵方巻きのチラシに触発されて、ずっと作ってみたいと思っていた太巻きに挑戦しました。一人暮らしのくせに大きな寿司桶は持っているのですが、巻き簾は今回初めて購入しました。スーパーで200円、ずいぶん低いハードルでした。巻き方はYouTubeにいくらでも転がっています。酢飯が雑だったり、お刺身の鮮度が今ひとつだったり、隙間ができてぐすぐすしたり、失敗もありましたが少しずつ上手く巻けるようになってきました。
太巻きの魅力は、巻くときの手応えのおもしろさ、包丁で切った断面の華やかさ、つまみ食いのおいしさ、お弁当に持っていけることなど枚挙にいとまがありません。問題はただ一つ、ごはんが瞬時になくなることです。お米一合で作った太巻き2本が、実感としては0.5秒くらいでなくなります。幸せとは儚いものなのです。
 

(絲山秋子「馬事からっ風」 TRC乗馬クラブ高崎『ぽこあぽこ 3月号(2022年)』より)


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