2010/8/6 金曜日
昨日、群像の新しい連載のことが浮かんだ。書き始めるのは、まだずっと先のことになると思うけれど、「エスケイプ」「末裔」に続くオヤジシリーズになるんじゃないかな、素材からすると。舞台となる町にも行ってみようと思います。どのみち、少しふらふらしてみないことには次を書く体力がないです。
今日も薬飲んでくたばってました。ただ睡眠不足を取り戻しているだけじゃなくて、ストレスから自分を守るためにくたばっているんだな。
クーペは細かい消耗部品等の交換で整備へ。
ところが、うっかり忘れていた。明日から高崎まつり。祭嫌いの私は下界に下りられない。
夕方、元気になってから散髪へ。ごめんと謝ったら、犬どもはレレレのおじさんみたいな顔で見送ってくれた。
その足でビール枝豆ゴーヤチャンプルーお会計1900円。
深酒はせず、帰りの代行さんと高校野球の話で盛り上がって帰ってきました。代行さんと飲みに行きたかったくらい。
(こっちの高校野球は顧問の先生の転勤とかの話まであるので、奥深いのです)
2010/8/5 木曜日
昼間、寝ているときに「山の母」から電話があった。玄関のとこにキュウリとモロッコインゲンおいとくからね、と言われたのだった。
犬の散歩から帰ってきたら、でかいトロ箱が置いてある。あれが全部キュウリだったらどうしよう、と青ざめたが(群馬ではよくあること)、なんと晩ご飯が入っていたのだった。梅のおむすびと鮎の塩焼き、サラダ、きゃらぶき、漬け物、とうもろこし。
全部が夏の味。
そして近い場所の味。(私の場合、ふるさとではないけれど)
いやぁ、おいしかったのなんの。
ありがとう山の母。
元気になったら遊びに行きます。9月になったらワカサギいっぱい釣りましょう。
朝の涼しいうちに長い散歩。
洗濯して麦茶も沸かした。
仕事がないわけじゃないが、急ぎのものはない。
庭の草はもう、大変なことになっているが見ないふり。
メシは、犬が旨そうに肉トマトそうめん食った。
今朝は峠に行きたくて行きたくてそれも三つくらい県境またいで峠のハシゴをしたかったが、その計画自体がおかしいことに気がついたので、やめました。薬飲んで休みます。目が覚めたらゲームやろう。ぼーっとしてたら、それも鎮静作用。あとはシド・バレットでも聴いてりゃいいや。
(自営業だから面倒なんだけれど)医師との相談に基づく自宅療養は、カンヅメにとても似ている。
知らない人は、編集者が作家を拉致監禁するのがカンヅメと思うこともあるみたいだけれど、私の知る限りでは基本、作家が「他のことから離れて集中したいので場所貸してもらえますか」と相談して出版社の保養施設などにこもるのがカンヅメ。監視もされず外出も自由。
2010/8/4 水曜日
話しているうちに混乱したり、堂々巡りの愁訴にならないように、自分の状況をメモにして、それをもとに医師と話した。
最初に、禿先生はこう言った。
「怒りというのは大切な感情です。但し、社会的な怒りと個人的な怒りがある。その区別は必要だし、誤解されない表現が求められる。感情的に怒りを表現すれば、内容はどうであれ相手はブロックするから決して真意は伝わらない」
睡眠が第一優先とのことで、強い薬の組み合わせパターンを三つ作ってもらった。改善しなければ次の段階を採用する、というやり方。(ODに興味がないことと、長い間の調整の記録がなければできないことだと思う)。
週末まで様子を見て、良くならなければ来週また来るようにとのこと。
本当は、躁の経験のある人にしか話したくない(理解してもらえないと思う)恥ずかしいことだが、歯止めが効かないのがなにより怖かった。
衝動で感情をぶちまける電話をしないようにケータイに「電話しないこと」というフセンを貼り、衝動で川に飛び込みを図らないよう「運転しないこと」というフセンを車のハンドルに貼った日もあった。見るとあまりの愚かしさと情けなさに抑制がかかる。医師はそのやり方を評価してくれ、今日の問診での抑制は最悪の時期を脱しているように見えると言った。
帰ってきて久しぶりに疲労というものを感じた。そのままでは眠れなかったので、「昼寝用」に処方された眠剤で午後2時から8時まで眠った。これから新しい処方で寝ます。
昨夜は小刻みではあるけれど、やっと合計4時間、眠れた。
ここんとこベゲB飲んでも1時間とかだったので、助かった。
昨日は映画の打ち合わせを市内のホテルでした後、家で新潮社と『妻の超然』単行本の細々したことの打ち合わせ。
ものすごく細かい点以外は既に仕上がっている初校ゲラを出してしまい、体調を整えて再校ゲラに時間をかけることにした。
これでかなり、ほっとした。
来宅した出版社とまた街へ出かけてしまう、というパターンをいつの間に犬どもは覚えたのか。
編集者のために呼んだタクシーが出て行くと二匹揃って、
「行かなかったんですね!」と満面の笑み。
そんな顔されると困るなあ。オヤツのグレードが上がるなあ。
(今、外でくしゃみした)
今日は立川通院。
映画「ばかもの」の公開についてです。
お正月映画になるそうです。
詳細もそのうち、いろいろなメディアからお伝えすることができると思います。
どうぞよろしくお願いします。
2010/8/2 月曜日
躁病というのは(私は多分混合状態なんだけれど)、寝ない食べない疲れないが基本。
カラダは疲れているけれど、アタマはそれを認めない。
当然、せめぎ合いになる。
カラダもやりやがったね。この年になって初めて過換気症候群起こしやがった。
たまげた。苦しかった。
幸い知識もあり、茶封筒も各種取り揃えている家だ。あっさり解決。効くなあペーパーバック法。
昔、そういう遊びをしたことがなかったのでちょっと変な気持ちがしたけれど。
明日は昼間に打ち合わせが1件。
本当は人と会っていい状態ではない。
日記は休むかもしれません。わかりません。
昨日の松浦さんとの対談は、何よりも会場に来てくださった方々の雰囲気があたたかくて、とても嬉しかったです。
私は、地元ということもあり、客席に励まされ見守られる思いでした。東京じゃああはいかない。
自分が詩のことを何も知らないので図々しく愚かな質問もしましたが、朔太郎賞受賞作「吃水都市」について、詩と散文について、文体について、比喩について、こだわりのある装丁について、それから松浦さんの愛犬のことなど雑談も交えて、普段はお聞きできないいろいろな話を伺えて、とても幸せでした。
ばあや業もなんとか、がんばれたかな。
手下の犬どももいつも以上の大歓迎。あいつら意外に人を見る目があるのか?
おいしく飲み食いし、記憶が飛ぶこともなく、楽しい時間を過ごさせていただきました。花火もよかった。
残念だったのは雷様の応援がなく、蒸し暑かったこと。群馬の夜はいつもならもっと涼しいのに。
でも最高の日でした。
全てがうまくいって、楽しかったんだけれど、今朝のありあまる多幸感は異常だと思う。
平たく言えばかなり躁っぽい。
実際はかなり疲れているはずなのに、安堵してどっと出るはずなのに、全くそれがない。酒も残ってない。早起きして、エネルギーに溢れ、イヤなことまで楽しい。
雨の散歩なんて嫌いなのに楽しい。後片付けだって苦手なのにフットワークが軽い軽い。買ったばかりのシャンパンフルートをうっかり割ってしまっても「おお、やったな!」みたいな、いやそれ嬉しいとこじゃないぞ。
多幸感自体が問題なのではなく、崩れたときにめちゃくちゃになるのがおそろしいのです。経験上おそろしいとか書いているけれど、危機感などまるでない。豪雨の中、飛び出して行きたい気持ち。
集中力、判断力は大幅に低下している筈です。
うまくまとまらなくてすみません。本当に気をつけないと(これも言葉だけ)。明後日が通院でよかったです。
2010/8/1 日曜日
ばあやは5時から日記を書いて、それから犬の散歩に行き、6時半から鶏ガラとタマネギ、長ネギ、セロリでスープをとっています。
その合間に、対談メモの整理をし、メールの返信を出し、伝票を書いております。
「旦那がいない主婦」というのは違和感あったんだけど、「一人ばあや」というとなんとなくアリかな。
「今日はばあやが留守番しているだけですから」と言えば、居留守も使えそうだ。
7月27日の毎日新聞朝刊 シリーズ「こころを救う うつ100万人」より
(見出し)手に山盛りの薬 毎日
(本文冒頭)手のひらいっぱいに盛った薬を口に押し込み、一気に水を流し込む。そんな仕草が「気持ち悪かった」と夫が打ち明けたのは、妻(37)のうつ病が治ってからだった。(後略)
読まなきゃいいって言われたらそれまでだけれど、どうしても毎朝ポストに入っているもんだから読んでしまう。
この日が一番ひどかったけれど、シリーズだから連日やってくれる。いやもう、読むとどんどん蝕まれて行く感じがする。ただでさえ調子が悪い自分の背中を、もっと悪い方へと押してくれる。一回きりの記事なら我慢しようと思っていたけれど、もはや自分で抱えきれないので書きました。
すごいね。
処方に問題がある、ということを書きたいのはわかる。実際に問題があるかどうかはわからないようになっているけれど。
けれどそのために、病気の治療に関することを「気持ち悪い」という表現で、不特定多数(100万人の患者も含む)が読む媒体に載せるということ。
これを不適切と言わずになんと言うのだ。
抗がん剤やほかの病気についてでも、こういう書き方をするだろうか。
「作家の超然」でも新聞のことを書いたけれど、それはこの特集が始まる前のことだし、もっと観念的な話。
ですので、小説に関しては、精神病関連の記事に苛立って書いたわけではないです。
契約は多分8月で切れる筈だけど、ほんとに新聞とめないと自分にとってまずいと思う。炒めたナスの油を切ったり、生ゴミ捨てたりするために古新聞は必要なんだけど、それは自分の掲載紙がいくらでも余ってるからいいや。